托鉢の「いただきます」~私は、この世界を織り上げている断片のひとつ。

絵本『いただきます』に平行して、
「いただきます」の現場を取材し、
かつみなさんにその取材の様子をお伝えする
「いただきますをさがして」。

また、「この人の『いただきます』を知りたい!」という
ことを、少しずつお伺いして記事にしようと思います。

今回は第一弾。托鉢の修行を経験した方に、
「人から頂いたたべものを食べる」生活から見えた
「いただきます」の世界についてお話頂きました。


◎取材・文 山本ペロ


托鉢。
人から食べ物をほどこしてもらい、一日をその食べ物だけで過ごす仏教の修行。
仏教国のタイでは、こういった「施し・施される」ことが普通に行われているらしい。

「いただきますプロジェクト」のメンバーから、
「タイで托鉢をしたことがある人が居る」と聞いた時、
「いただきます」とは何なのか、
あるいはこの方ならご存知のではないかと思い、
取材のお願いをさせて頂いた。
果たして、4時間(!)にわたるお話の中で、
私は「いただきます」という言葉が持っている世界の広さに、
目を開かれるような思いをした。

田中智(たなか・さとし)さんは、
ヨーガ講師と、教育関係のライターをされている。
そんな方が、なぜ托鉢をしていたのだろうか。

托鉢は特別なものではない

私は、インドのヨーガ研究所の付属大学に留学し、「古典にもとづくヨーガ」を教えています。もともと、ヨーガの本質とは、ざっくり言えば「自分が整っている状態とは何か、それをいかに保つか」ということで、その根底にある行動が瞑想です。だから、ヨーガは瞑想でもあるし、瞑想のための訓練でもあるわけです。瞑想の中でも、「ヴィッパサナー瞑想」は、ヨーガの実践と相性も良く、私は主にタイで実践を深めています。じつは、ヨーガの大元となる経典は、ちょうどブッダが悟りを開いた時代に生まれたもの。ですので、ヨーガと仏教は共通する概念が数多くあるのです。そして今回、タイのお寺で瞑想を学ぶ中で、私も托鉢にお供させていただいた、というわけです。

田中さんが瞑想を学んだスカトー寺。日本人の僧侶の方が副住職を務められているご縁で滞在した。

今回、取材の話を頂いてありがたかったのですが、私は托鉢が主な目的で行ったわけでもないし、托鉢という行為が特別なこととして取り上げられるのは少し違うかも…とも思いました。私には、実際の托鉢は、それとは対極の印象だったんです。本当は僧侶の方に話してもらうのがベストだと思いますが、せっかくなので、学んでいる者として感じたことをお話してみますね。

托鉢は心を尽くしつつも、たんたんと行う

タイは仏教の伝統が色濃く残っている国ですので「托鉢で在家(一般人)が僧侶に食べ物を差し出す」ことは、決して特別なことではありません。状況に応じて、用意できる人が無理なく行っている印象です。食べ物を用意してくれるお宅は決まっていて、僧侶はいくつかのルートに分かれて、托鉢に出向きます。朝、5時に起きて、読経をし、朝のおつとめ(掃除など)をした後、まだ陽も昇らないうちに出発です。僧侶はオレンジ色の僧衣、私は滞在者が身に着ける白色の服を着ています。僧侶はみんな裸足ですが、慣れているため、すごいスピードです。私は遅れないようしっかり靴を履き、ついていきます。もっとも、これも「歩く瞑想」という修行の一環。一歩ずつ自分の動作に「気づき続ける」ことを大切にします。無言で歩く5㎞の道のりです。

この、白い服を着ているのが私です。お坊さんのアシスタント的役割で、托鉢で頂いた食べ物を持つ係。バナナを丸ごとひと房は、けっこう重かったですね(苦笑)。15~20軒のお宅を回りました。差し出されるものは、なんでも頂きます。炊き立てのご飯、野菜、果物、煮物、炒めたもの…生ジュースなどをビニールに入れて頂くこともあります。在家の人は食べ物を用意して、家の前で僧侶がくるのを待っています。僧侶は目の前に来ると、黙って首からぶら下げたかごのふたを開け、在家の人はそこに食べ物を入れ、しゃがんで合掌します。僧侶がお経を唱え、それが30秒~1分ほど、朝の鳥のさえずりとともに、美しく静かに響きます。お経が終わると、お辞儀をせずに無言のまま、次へと立ち去ります。僧侶と在家は目を合わすことなく、触れることも、言葉を交わすこともありません。

托鉢に同行した日本人の多くが、「え、こんなあっさりしたものなの?」といった感想を持つようです。「施し、施される」関係なら、深い感謝の交流があってもいいはず、と。確かに一見、ルーチンワークをこなしているような印象さえあります。しかし、ここが重要なところです。僧侶は「自分の所有物を持たない」修行生活を送っています。ゆえに、施しを受けるわけで、それにより、自分と他者を区切る“自我”の境界線が薄れ、「自分の持ち物は、全体の持ち物」ということを学んでいきます。これが「徳」です。そして、この徳を敬うのが在家の人たちです。自分ができない修行を僧侶が行い、それを教えてくれる。食べ物を施すのは、僧侶個人に対してではなく、修行そのものに施している、と言ったほうが適切です。だからこそ、施す側にも徳が積まれるのです。なので、ここで「修行がんばってくださいね!」「ありがとうございます!」といったコミュニケーションをしてしまうと、与える側と与えられる側を、個人(自我)という枠におさめる小さな行為になってしまう。托鉢は、もっと大きな、人間の精神の営み全体(=徳)を表す象徴のような行為です。日常のようにたんたんと、しかし、かけがえのない儀式のように心を尽くして行うのが正しいあり方なのです。面白いことに、最初は長くて大変に感じた道のりも、一週間後には「この時間がずっと続いてほしい」と思えてきました。朝陽が昇り、草木が輝き、自然が目覚めの呼吸をし出す。世界が一番輝く時に、「徳を積む」という大きな世界に、自分自身が解けていく解放感が感じられました。

食べ物は無言で、丁寧にいただく

托鉢が終わってお寺に戻ると、頂いた食べ物で、朝食をいただきます。僧侶は戒律に従い、一日一食のみです。午後に食事はしません。「そんなに少なくてもいいの?」と思われるかもしれませんが、馴れると体が非常に軽快ですよ。毎朝の托鉢以外にも、会社や個人からまとめて頂くこともあるようで、量が足りないということはありませんでした。食事は、バイキング形式で大皿に並べられ、各自、食べる分だけとっていきます。毎日バラエティに富んだ食事でした。タイのお寺では、托鉢でいただいたものは何でも食べます。主に菜食ですが、お肉もお魚も並ぶことがあるようです。食べ物の準備が終わると、最初に全員で食前の読経を行い、それから僧侶、女性の修行者、在家の滞在者、といった順番でとっていきます。

食べている時は、無言で、ひと口ひと口、「噛んだ」「飲み込んでいる」と、瞑想同様、気づきながら食べていきます。「暗い…」と思われるかもしれませんが、自然が豊かなタイの修行寺では、鳥のさえずり、虫や動物たちの営みを感じながら食べることができます。口にするものと自分自身がひとつになる感覚が感じられ、会話することを自然と忘れるくらいです。

ある日の托鉢後の食事

「いただきます」は、“つながり”の中にいる宣言。

こうして、托鉢の経験を通じて感じたのは、托鉢は「特別なことではない」ということです。いや、むしろ、「特別なことにしないようにして行うことが大事」といったほうがいいかもしれません。「施す、施される」というのは、一見、特別なありがたい行為のようにも見えます。しかし、それが「内面の豊かさ」になるのは、じつは、日々の営みのようにたんたんと行ってこそ、と感じられてきます。与える側も与えられる側も、より大きな豊かさを実現するために、自分の役回りをやっているだけのこと。「特別なこと」と見なしているうちは、どこか自分を狭くしてしまい、また、関係する他者とのつながりも、どこか一方的にしてしまう感じがします。こうした経験から、改めて「いただきます」という言葉について考えると…私たちは日々「いただきます」と言うことで、食べ物がいただけることに感謝の思いをはせます。これはとても大切なことで、素晴らしいことだと思います。しかし、托鉢を経験した後では、自分を「感謝する側」だけに置くことは、何かが欠けているような気がするのです。いただいている恩恵は、自分以外の誰かから、というだけでなく、その中に自分という存在がいてもいいのでは、と思うのです。

自分の生活そのもの、自分が人や社会ともった関係性のどれに対しても、「いただきます」の言葉をかけたい。友人と会話したことでも、仕事で失敗したことでも、趣味に没頭したことでも、そういうことがまわりまわって、目の前にある食べ物をここまで運ぶつながりを支えている。自分は、この広い世界を織り上げているひとつの断片であって、自分もだれかの「いただきます」で感謝されるつながりの一部なんだ、と気づく。そういう「いただきます」でありたいと思うのです。

「いただきます」という言葉自体、面白いもので、感謝の意味合いがあるのに、カタチとしては、単なる行為を表すだけのシンプルな言葉ですよね。必要以上に意味をつけない「型の言葉」です。この言葉の姿は、托鉢の本質と近いものを感じます。感謝はあれど見せることなく、たんたんとしながらも心は尽くしている。積み重ねると、小さな自分が大きな普遍的な中に解けていくような言霊がありそうです。

また、こうした「特別にしない、でもおざなりにもしない。一方の極端に振れることなく、ちょうどよい一点に自身を保っている」ということは、最初にお話した、古典のヨーガが伝えている「整った状態にいる」ということと共通するものです。日本人が代々云い続けてきたこの言葉には、奥深いものがあるのだと思います。

私は今、一人暮らしですが、もし家族と一緒なら、やっぱり一緒に声を合わせて「いただきます」を毎日言いたいですね。「人や物と関わる大きなつながりの中に、ぼくらはいます!」と、笑顔で大きな声で宣言していたいものです。

単に食べ物をいただくだけでない、自分も含めた“つながり”そのものをいただく気持ちで、『いただきます』を、日々、大切にしていけたら、いいですね。

田中智さんのブログ
古典ヨーガ/ハタ・ヨーガでいこう
http://ameblo.jp/kotenyoga/

いただきますをさがそう

田中さんに、お話して頂いた世界をもっと知るための本をご紹介頂きました。

»『「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語』プラユキ・ナラテボー (著)
「日本人で20年以上前にタイで出家された僧侶、プラユキさんの本。今回、滞在したスカトー寺の副住職であり、現在、日本でも数多くの瞑想講和会でご活躍されています。」(田中さん)

»『「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方』 カンポン・トーンブンヌム (著)
「スカトー寺で修行をされた全身不随の障害者、カンポンさん(タイ人)の本。瞑想によって、苦しみから解放され、心豊かな人生を実現した感動の実話です」(田中さん)